ランゲルハンス島沖

どうしてそんなこと言うの

あなたの話を聞かせて

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2月に彼氏と入籍した。

日にちに拘りがなかったから、二人が空いている土曜日にしたら、なんと私の両親の結婚記念日と同じ日になってしまった。こっぱずかしいとか、オリジナリティがなくて嫌とかはとくに思わなくて、本当にすんなり結婚した。

毎日があきらかに、以前より楽しくなった。目の前のこの人が私の夫だという実感もあまりないまま、とにかく毎日しあわせに過ごした。派手に結婚式を挙げるわけでもなく、ブランドものの指輪を買うわけでもなく、今までどおり楽しく暮らしつづけた。

私はそのあいだ、“自分の調子がよくなった”と勘違いしていたのだと思う。調子がよくなったわけではなくて、私を喜ばせるイベントが立て続けに起きていて、それに圧倒されていただけだった。それに気がつかず、精神科の通院を終わらせた。現に気分の落ち込みや不眠や自殺念慮などはなかったので、医師も漢方しか出さなかったし、通院をやめることを止めなかった。私は自分を“症状の軽い患者”だと思い込んでいた。これは私が以前に精神科で働いていたことが仇となっていた。私は私を勘違いしていた。

 

6月に元同僚に会うことになった。彼女とは2年前に会って、そのときに結婚と出産を報告された。私にとってそれはとてもショックだった。仲良しの同僚が結婚して子供を産むことの寂しさや羨ましさというより、自分は遅れているという現実を突きつけられたように感じた。もう二度と会うことはないな、と直感した。

会うきっかけは、自分の調子を取り戻したと錯覚した私からだった。今なら誰にでも会えるし、誰の話もこころ穏やかに聞くことができる、そう錯覚していた。なんなら、子持ちの彼女に出産や育児について経験談を聞きたいとさえ考えていた。本当にあさはかだった。

2年ぶりに会った彼女は少し体に肉がついているように見えて、あきらかに以前と体型が変わっていたので出産の大変さをなんとなく感じた。初めて触れ合う一歳半の乳児はとても可愛くて、小さくて、頼もしかった。泣き声も可愛いと思えた。

 

家に帰ってから、焦燥感が襲ってきた。ああ私も早く子どもを産まなければ、もう今年で28歳になってしまう。

早くしないと産めない体になってしまう。

そうなったときに後悔するのが嫌だ。

後悔するのだけは嫌だ。

 

自分の人生にあまり後悔したことがない。強いて言えば、田舎のおばあちゃんの家にいた老犬を散歩に連れて行き心臓発作を起こさせて死なせてしまったことだ。あのときもっと勉強していればとか、好きな人に告白していればとか、こういう進路に行けばとか、あれを諦めずに頑張れば、とか、そういう後悔がない。いつでも自分にとって最適で自分が希望するルートを導き出してきた。学生のうちに将来の夢を見つけて、国家試験に合格して、一生物の資格を得ることができた。私は自分のために未来を選択することができた。

後悔したことはない。

「後悔したくない」と思ったこともなかった。

 

大好きな夫との遺伝子を分けた子供がほしい。その気持ちに変わりはない。

それよりも、「後悔したくない」という気持ちのほうが大きかった。

 

子どもがいるということは幸せであることの代名詞だと信じ込んでいた。それに付随して生まれる金銭的、精神的なつらさを私は楽観的に捉えていた。現状大人二人犬一匹だけで生活するには十分だ。しかし、弱くて幼いもう一人を養えるほどじゃない。自分たちはまだしも、子供になにかを諦めさせることが増えてしまうことは明白だ。

仕事で子供たちの自宅を訪問するたびに、小さく絶望する。両親が医師だとこんな大きな家に住めていれば安心だなあとか。子どもが三人いて、マイホームも車もあるなんて当たり前じゃなくすごいことだったんだなとか。専業主婦ができるだけ旦那さんの稼ぎがいいんだろうなとか。兄弟がいることや自宅があること、車があることを小さい頃は当たり前だと思っていた自分が世間知らずだったことを実感した。

 

私の夫は、小さい頃お金のことでとても苦労して育った。私もあまり根掘り葉掘り聞かないけれど、夫やその兄弟たちは実家にお金がないことでいろいろなことを諦めなければならなかった。大学時代、夫のための教習所費用は義父の怪我の治療費に消えた。そしてそれは無かったことにされた。

夫は、金銭的な理由で子どもになにかを諦めさせたくないと何度も言っていた。だから“もう一人”の余裕がないいまは考えるべきじゃないと。それは私もよくわかる。贅沢をさせてあげたいわけじゃないが、進学や習い事とか子どもがやりたいと思うことはやらせてあげたい。ウチはお金がないからダメよ、なんて言いたくはない。

でも、じゃあ余裕があるときっていつなの?

何千万円の貯金ができれば、子どもを作る気になるの?

そのときすでに手遅れだったらどうなるの?

こういうことで、私たちは何回も何回も喧嘩をして、話し合いをした。いつも同じようなことでお互いが怒って、泣いて、同じ結果に行き着くのに。

 

 

もし、余裕ができたときが40歳だったら?ああ、お金がなくても若いうちに産んでおくべきだった。多少無理しても、子どもに我慢をさせてもそうするべきだった。そう後悔するんだろうか。

耐えられないかもしれない。夫を恨むかもしれない。最悪なことを実行してしまうかもしれない。身内や友達の子どもを心から可愛いと思えないかもしれない。子どもに関連する仕事を続けられないかもしれない。

私はそのことばかりがこわかった。

後悔したときの自分の豹変した姿を想像して、目の前が真っ暗になる。私は今まで自分の人生を自分で考えて、選んできた。だから後悔なんてなかったから。

 

 

 

6月に子供のいる元同僚に会ったせいで、そういうことが再燃してしまった。私がきっかけを作って、また私たちは、お互いを傷つけてしまった。夫は私を“誰かとの子供を望む女”と解釈して、私は夫を“同じ未来を見ていない男”と解釈していた。また同じことの繰り返しだった。また何度も話し合いをして、お互いを誤解していたことを謝った。

 

子どもをいま産むことはできない。

この先、もしかしたら産むことはないかもしれない。

私たちは、『金銭的、精神的な負担を理由に子供を諦めた夫婦』になるかもしれない。

その結果、今生きている小さな社会で嫌味を言われたり嫌な思いをすることあるかもしれない。後悔することもあるかもしれない。夫婦仲が悪くなってしまうかもしれない。離婚をしてしまうかもしれない。

でもそれは、子どもがいても同じことかもしれない。生まれてくる子どもが五体満足とは限らない。幸せな環境で子どもを育てることができないかもしれない。時間やお金がいくらあっても足りないかもしれない。

 

考えても考えても、私が思う”後悔のない人生“がわからなかった。

この先の人生は私だけのものじゃなくなった。私はそのことをすっかり忘れていたのだ。

だから、この先の後悔がわからなくても仕方ないし、後悔を回避しようと奮闘しなくたっていい。そのことで大切な人と喧嘩するなんて、不毛なのだ。誰にもわからないのだから。

 

私は、これから訪れる”後悔のある人生“を覚悟して生きていく必要がある。

私の人生はもう、私の人生が私だけのものではなくなったからだ。

これからは大切な人と何度も何度も傷つけ合い、話し合いをして、愛し合って、勇気を持って後悔をしていかなければならない。

 

私はいまやっと気がついた。

 

 

 

 

みなさんは、どうですか。

勇気を持って後悔することを、していますか?

あなたの話を聞かせてください。

 

 

近況

 

今月で精神科に通い始めて3ヶ月が経つ。

病院に着くと、まずは心理士とカウンセリングを45分ほど行い、その後医師の診察を受ける。処方箋を薬局で引き換える。そういうのを二週間に一度もペースでやっている。なんとなく、なるべく予約は午前中に取るようにしている。

 

最近、ようやく心理士の先生と緊張せずに話せるようになってきた。私は自分が緊張していることを隠すためだったり、相手からの印象を気にしてしまって、初対面でくだけた口調を使ってしまうことがある。ひょうきんな人だと思われたい、というような変な感じ。でも、いくら私がくだけた口調になろうが、雑な言葉を使おうが、心理士の先生はくすりとも笑わず淡々と話を聞いていた。

ふとしたときに、私が家で飼っている犬について話をした瞬間に心理士の先生の目つきが変わったようにみえた。「なんていう種類の犬ですか?」「いつ頃から飼っているんですか?」等、かなり踏み込んだ質問をしてきた。先生の豹変ぶりに少しびっくりした。一通り答えて、もしかして先生はなにか飼っているんですか?と聞いたら、先生は初めて目元を緩ませて「むかし柴犬がいました。もう亡くなっちゃったんですけど、、、」と答えてくれた。

先生の緩んだ目元、公的な立場の人があきらかに個人的な話をしているときの独特な口調に、私はすごく嬉しい気持ちになった。このことがあってから、なんとなく先生との間にあった緊張感のようなものは緩まった。私はわざと口調をくずさず話すようになった。

 

先月末、WAISという知能検査を受けてきた。同年代の知的レベルと比べて自分はどの位置にあるのか、というのがわかるらしい。

図形のパズルの問題が面白かった。問題を見た瞬間、こんなのできそうにないなと思ったが、説いていくうちに自分がかなり集中して取り組んでいることに気がついた。思い返せば小さいころテトリスが大好きで、親に怒られるまで熱中してやっていた。実際のパズルも100円ショップで買って、よくやっていた。図形の回転、似ている図形の選択、一連の図形の法則性を解く問題など、わりと楽しかった。

しかし、計算の暗算、数字の暗唱、単語の説明はかなり難しかった。人の口から文章問題を聞き、それを数式に当てはめて、暗算で計算する、という作業が難しい。しかも、文章問題だから変なところが気になってしまう。「たかしさんは云々」という問題が出てくると「えったかしさんて誰?」とか、「ゆりさんは云々」だと「うわ、名前が一緒だ。いや関係あるわけないか、、」とどうでもいいことばかり考えはじめてしまって、そのあとの言葉を聞き漏らす。

数字の羅列の暗唱では、7桁あたりからあやしかった。さらにそれを逆から暗唱する問題では、もう5桁辺りでお手上げだった。

短期記憶がかなり弱く、マルチタスクが苦手であることはもう明白だ。

 

検査を受ける前、先生は何度か「この検査では同世代の数値において自分がどの位置にあるかということがわかる検査ですが、大丈夫ですか?」と私に聞いてきた。周囲と自分を比べて落ち込んでしまう私の性格を気にしていたんだと思う。そうだったら、ありがたいなと思った。

私は別に、結果が良くても悪くてもどっちでもいいと思っている。どういう結果でも、「やっぱりね」と思える気がする。結果次第でこの生活が変わるわけじゃない。それに、本当はADHDなんかじゃなくてただ単に能力が低いだらしない人間だったとしても、それでもいい。私はきちんと働いていて、経済的に自立しているし、他人と助け合って暮らしているし、犬の世話だってしてる。

結果が楽しみだ。

 

 

 

精神科に通い続けて三ヶ月、わりと調子がいい。

でも以前のように彼氏と喧嘩することもあるし、久しぶりに会った友達と自分を比べて少し落ち込んだり、仕事でうまくいかないこともある。それでも、以前のように感情を爆発させたり、不適切な行動に置き換えて自己表現することはなくなった。自分が怒っているとき、なにに自分が怒っているかを相手に説明できるようになった。健康的に怒ったり、泣いたりするということが少しずつわかってきた。自分の感情に対して、シンプルに分析することができるようになった。

定期的なカウンセリングや処方されている漢方薬の効果だろうか、それとも、「精神科に通院している」という事実だけで精神的に安定しているのか。

 

死というものについても、あまり考えることがなくなった。自分の将来を悲観して焦ることもあるが、それ以上に「まあひとまず私はきちんと生きているからそれでいいか」と、自分が生み出した問題から距離を置くことができた。

だからといって、この先何年何十年と精神的に健康でいられるかどうかはわからない。

自分の人生に集中していられるようになりたい。

 

表出

 

もう30分近く、別室で大声で喚き散らす子どもがいた。

「もう全部俺のせいなんでしょ!!もう嫌だ!!」といったようなことを叫んでいた。時々そういうことがある子だったし、クールダウンのために入った別室には職員が付き添っていたので介入せず、私はしばらく様子を見て過ごした。

しばらくすると付き添っていた職員が出てきて、「安藤さんとしか話したくないって言ってるから、代わってくれる?」と言ってきた。

私は子どものいる別室に入った。彼はしくしくと泣きながら両腕を体操着の中につっこんで、ひざをかかえて床に座っていた。部屋の中が暑かったので、少し冷房を入れた。

私には臨床心理士の資格も経験もないが、心身ともにパニック状態になった子どもと個室で話す時間を“カウンセリング”だと思うようにしている。こちらから子どもへ“何かを与えてあげよう”というより、“本人を知る良い機会だからたくさん話してほしい”し、あわよくば“私との対話で自身の現状や課題を認識できたらいいな”といったようなフワフワとしたカウンセリングだ。

 

 

どうせ俺が全部悪いんだ。

みんながいじわるする。

先生たちのせいでイライラする。

もう全部嫌。帰りたい。

大声出してごめんなさい。

 

子どもたちが泣きながら大声で叫ぶ様子に、私は自分を重ねてしまう。重ねるというか、もはや自分の姿にしか見えなくなってくる。

彼らはたいてい、何かに対して怒っているか、自分のやったことを謝っていた。

他人から見れば小さな出来事が重く、深く、のしかかってくる。それはもう、大声を出したり、壁を殴ったり、誰かのせいにして非難をしないとやり過ごすことができないのだ。その行動でしか、ストレスに耐えることができない。そして、そういう自分の行動が不適切であるということを理解している子が多い。

頭の中の激しい混乱が言葉や行動によって表出されている。

 

そういう状態の彼らの頭の中の混乱を、自分のことのように感じる。いろいろな感情の波にのみ込まれる。

 

どうして私ばっかりこんな思いをしなきゃいけないの?

みんなは普通で、ずるい。

こんなことになってしまう自分が嫌だ。

つらい。

どうしたら普通になれるんだろう。苦しまなくて済むんだろう。

 

 

 

パニック状態になった子どもと話すことで気がつくことがたくさんあるが、とても疲れてしまう。話を聞いて本人がすっきりしても、私はなんだかいつも疲れ切ってモヤモヤしていて、それを自宅まで引きずってしまう。

悪い状態の自分を見せつけられて、だめな自分を再認識するから?

私が“ああなってしまったとき”の彼の気持ちを考えてしまうから?

単純に、“あの対応でよかったのか”と自分の発言を振り返るから?

全部正解のような、間違いのようなかんじがする。

 

 

たとえ彼らのストレスの表出が他人から見れば不適切であったとしても、自分を責めないでほしいといつも強く願っている。

ストレスはどこに行ってもなくならない。

だから、不適切な行動をとって更に自己嫌悪に陥らなくて済むようにかかわっていきたい。

 

 

 

2022/07/13

治療

 

先月末から、約3年ぶり二度目の精神科クリニックへの通院がはじまった。

3年前は実家に住んでいて、いまとは比べものにならないほどストレスフルな仕事をしていた。高級そうなテーブルの向こうの高級そうな椅子に座っていた医師は、目の前のパソコンを隔てて私と話をした。弁護士とのやりとりのようだった。そんな経験はないけど。

あっさりと『注意欠陥多動性障害』の診断が下り、コンサータストラテラが処方された。

「これさえ飲んでいればみんなのように仕事ができるようになるんだ」と希望が見えてきたように感じた。実際に特にコンサータの効果は抜群だった。しかしながら、動悸や便秘、口渇の副作用と、高額な治療薬、何より「これを私は死ぬまで飲み続けなきゃいけないんだ」という先の見えない不安にやはり耐えられなかった。転職したら、服薬しなくてもそれなりに働けるようになった。

それからしばらく精神科には行かなくなった。

 

二度目の通院が始まったきっかけは、私が自殺未遂をしたからだ。

一度目の自殺未遂は去年の今頃で、まだ残っていたストラテラ数錠と酒を大量に飲んだ。彼氏に見つかって警察と救急車、両親を呼ばれそうになった。もうしないのでそれだけはやめてくれとゲロ吐きながら懇願した。彼氏は警察も救急車も両親も呼ばないでくれた。

二度目は今年の5月末、電気コードを首に巻いてベランダの柵と繋いだ。ベランダに体を乗り出したところを彼氏に見つかり、また“しかるべき機関の人たち“を呼ばれそうになったが、またしても「怒られたくないのでやめてくれ」と泣きながら懇願した。彼氏は警察等は呼ばなかったが、私の母の連絡先を自分の携帯にメモした。

「もうあなたは普通ではないから、病院に行ってきたほうがいいよ」と言われた。素直にそのとおりだと納得して、すぐに精神科クリニックを調べて予約を入れた。

 

-*-*-*-

 

私は中学一年生の頃から大学二年生くらいまで、リストカットを続けていた。もともと絵を描いたりアニメを見たり小説を読むのが好きで、そういうところから自傷行為の知識を得たのだと思う。

リストカットに至った原因はいろいろあったと思う。母親が厳しかった。勉強ができる弟と私はいつも比べられた。いつだって弟の方が可愛がられていて、うらやましかった。母親に褒めてもらおうと剣道を頑張って、中学3年で部長になった。学級委員をしたこともあったし、リレーの選手にも選ばれたし、剣道二段にも合格した。頼り甲斐のある生徒だと先生から言われた。卒業式でピアノで伴奏をした。勉強はできなかったからほかのことで認めてもらおうと思っていた。

でも、私がいくら頑張っても母は私を褒めてくれなかった。私がいくら頑張っても、母の望む娘に私はなれなかった。じゃあもうどうなったっていいや!と吹っ切れることもできなかった。

 

自分が我慢すれば丸く収まる、という経験をし過ぎた。今思えば部活で部長になることも、学級委員になることもほんとうは嫌だったのかもしれない。自分の”ナマの感情“から目を背けていたツケはきちんと回ってきて、学校から帰ると自分の部屋で腕を切りまくった。自傷行為をする人の、「血を見るとすっきりする。冷静になれる」という気もちがよくわかる。誤学習なんだけど。

 

夜、一人の部屋でふとんにくるまって、自分の力だけではどうしようもできないどでかい不安や絶望の壁に圧倒された。実際には実家の自分の部屋にいて、一階でテレビを見ている家族の笑い声が聞こえてくるのに、自分がひどく孤独で全世界の人間がいずれ自分を陥れようとしていると感じた。

なんかもうずっと「生まれてきて申し訳ない」みたいな気分だった。

誰にも相談することもなく、親に反抗して気持ちをぶつけることもなかった。誰のことも信用していなかったから。そんでもって、”異常行動をしている自分“にも気がつかなかったし、興味がなかった。

私は今よりもうずっと前に、医療機関にかかるべきだった。

 

-*-*-*

 

年齢を重ねればきっと大人になれると思っていた。苦手なしいたけやゴーヤも食べられるようになるし、ビールをたくさん飲むものだと思ってたし、もちろん精神的にも落ち着くものだと思い込んでいた。

社会人三年目くらいまでは仕事のことで頭がいっぱいで、仕事のことしかストレスがなかった。それはそれで大変だったけど、そのときは忙しすぎて自分の“精神的な未熟さ”を考える時間がなかった。

三年目を過ぎて転職し、自分のキャパを越えない適度な仕事に就くことができた途端、私は自分について考える時間が増えた。

 

どんどん不安定になっていった。

周りがどんどん結婚出産していった。それはまるでこの世の当たり前みたいなふうに見えて、ものすごく焦った。

 

私はずっと”自傷行為“という、普通の人がやらないことを長年続けてきた”異常“な人間だ。だからこそ、”普通“に近づかなければいけないと思った。

26歳になっても彼氏と喧嘩することを恐れて自分が我慢することで全てを済ませようとしたけど、結局どこかでそれは爆発して、いろいろなものを壊してしまう。泣き喚いて洗濯機を蹴飛ばしてしまう。裸足で外へ飛び出してしまう。夜中に電車に乗ってどっかに行ってしまう。包丁を握ってキッチンで突っ立ってしまう。

 

自分に問題がある時期にきちんと自分と向き合わないと、そのときから“自分の中身の時間”が止まってしまう。何も問題が解決しないまま時間だけが過ぎて、それでもそれは“無かったこと”にはならなくて、また自分の目の前に立ちはだかる。外側の自分と内側の自分のギャップに絶望して、焦る。

 

 

 

-*-*-*-*

 

待合室のソファはふかふかで、ずっしりと体が埋まる。予約時間から20分ほど過ぎて名前を呼ばれた。

先生はパソコンを打ちながらも、私の話を親身に聞いてくれた。“私が話したかったこと”を先生から質問してくれて、なんとも不思議だった。ウンウンと相槌を打っていたが、「それは大変だったね。辛かったね」と過剰に共感しすぎるわけでもなかった。私にとってはそれがほどよい距離感で心地よかった。初対面の精神科医が言う「辛かったね」など、信用できなさすぎてちっとも受け止められない。

ひとまずは漢方薬の服用と頓服薬を続け、カウンセリングをすることに決まった。

 

 

 

2022/06/20

 

 

人を助けたときの話

 

その頃私は精⚫︎科の在宅クリニックで働いてて、毎日患者さんちに自転車で回ってた。運転免許は持ってたけど運転の技術がヤバかったので、暑い日も寒い日も自転車でずっと町を走り回っていた。

 

夕方4時頃、残り一人の患者さんちへ目指して自転車を走らせていた。

私の横を車が追い越していって、そのまま交差点を"なにかを避けるように"膨らんで通過していった。なんだアレ、と思ってその車が行った後を見てたら、おじさんが自転車と一緒に倒れていて、そばで自転車に乗った少年が呆然と突っ立っていた。

おじさんが「オイ!いてえぞお前!!」と少年に叫んでて、少年は震えながらその場から動けなくなっていた。

 

車が轢いたような音もしなかったから、おじさんと少年が何かあったんだなとわかった。めんどくさいものを見ちゃったな‥と思った。ここで警察呼んだら事情聴取とかされて患者さんちに行けなくなるかもしれないし、クリニックに連絡がいったら迷惑だ‥とか色々なことを一瞬で考えた。

少年を罵るおじさんと震える少年をしばらく遠くから眺めていて、自分がここでどう決断するのかめちゃくちゃ悩んだ。でもなんというか、「こういう場面で私ってどう動くのかな?」と変に俯瞰して自分を見ている自分もいた。

 

周りには私以外誰もいなくて、何より少年が泣きそうになっていたから、「もうどうにでもなれ」と決心して近寄った。

 

「どうしたんですか?」

なんか私はまだ社会に出たてのフワフワした奴なくせに、「自分は精⚫︎科で働いてるんだ」という事実と自信がここではすごく強みになっていて、こういうときは興奮している人を優先して話を聞いておこうと判断して、おじさんのほうに話しかけた。

「このガキが物凄いスピードで走ってて、びっくりして転んだ」と第三者が現れたことで余計に興奮したおじさんが私に教えてくれた。うんうんと相槌を打ってやんわり傾聴しつつ、どこか怪我してませんか?と聞いた。

 

「ホラここだよ!!このガキのせいで怪我したんだ!!」

おじさんはそう叫んで、くるぶしを見せてきた。そこには以前できたであろう、中サイズのカサブタがあった。これは今できた傷じゃねえだろ‥と思いつつ、「あーでも血は出てないですね。これくらいで済んでよかったですね」とやんわり伝えて、おじさんの興奮が収まるように相槌を打ってた。

 

おじさんの主張を一通り聞き終わり、少しおじさんが落ち着いてきたので「立てますか」と言うと、「肩貸してくれ」と言われて、なんか嫌だったけど肩を貸して体を起こしておじさんの自転車も起こした。子ども相手に昔のカサブタを指して子どもをいじめるおじさんに触れるのも、"この人はおじさんの味方なのか"と少年に思われてしまうことも嫌だった。

 

少年は中学年くらいの男の子だった。

少年はずっと震えてて、私とおじさんが話している間もずっと「ごめんなさい、ごめんなさい」と震えながら謝っていた。

「たしかに僕がちょっと、飛ばしすぎてましたけど‥こんな、こんな‥」と話しながら泣き出しそうになってた。サッカークラブに行く途中らしく、遅刻しそうになっていたからいつもより速度が出てしまったらしい。

 

まとめると、少年が猛スピードで自転車を走らせていたのは確かだが、おじさんが転倒するほどのものでもなく、相手が子どもだったのでおじさんは文句をつけ、そしておじさんの指摘する傷は以前のものである(と思われる)というところだと思った。

 

おじさんは「警察を呼べよ!」と、なぜか私ではなく少年に叫んでいた。「警察」というキーワードに少年はひどく怯えて、口をわなわなさせていた。少年が猛スピードで走っていたのも悪いけど、ここまで難癖つけることないんじゃないかとなんか呆れた。

どうしようかなと悩んだ。

こんなことで警察を呼んだらどうなるか?この少年は警察を呼ばれることを望んでいないし、私がここで警察を呼んだら完全に"おじさんの味方"になってしまう。救急車を呼ぶほどの怪我をしているわけでもなく、ただ単に"おじさんが子ども相手に言いがかりをつけている"だけなのだ。

少年は事を大事にしたくはないはずだ。それでも、私が少年の肩を持った判断を下せばおじさんは激昂するに違いない。

なんかもっと、穏便に済む方法はないだろうか?おじさんも納得して落ち着いてくれて、かつ、この少年も安心して話ができるような人を呼べないか?

 

小学校の先生を呼ぼうと閃いた。

まあ極めて少年サイドではあるが、"第三者の大人"ということもあって別におじさんは嫌な顔をしないだろうし、少年もすこしはほっとするかもしれない。

おじさんにも一応了解を得て、私は少年に名前と学年と担任の先生の名前を聞き、小学校の電話番号を調べてかけてみた。入職したてのころは電話が怖くて手が震えるくらい大嫌いだったのに、いまはこんな事態に知らないところへ電話をかけられる自分にびっくりした。

事情を説明したら、すぐに先生が二人駆けつけてくれた。「あなた誰なんですか?なんなんですか?」と不審者扱いされたらどうしようと冷や冷やしたけど、きちんと話を聞いてくれそうな先生たちだった。顔見知りの先生が来たからか、少年は目に見えてほっとした顔をしていて、もう泣き出しそうになるのを必死に堪えていた。

改めて先生に説明をして、おじさんには軽く補足してもらう程度に喋ってもらうようにほとんど私が喋るようにした。うまく言えてなかったと思うけど、おじさんがあなたの生徒さんに言いがかりをつけていますよというニュアンスが少しでも伝わったと思う。

 

先生の判断は、「ひとまずこの件はこの子の親御さんに連絡します。また、こういったことがないよう学校でも周知させますので‥」ということだった。さすが先生だ。このおじさんが納得するポイントを理解している。他の生徒にもきちんと周知させる、といったところはおじさんも想定外だったと思う。「じゃあそうしてくださいよ」とおじさんは納得してくれた。

おじさんが納得してくれたところでやっと場が和み、先生は少年に「気をつけなさいね」と優しく指導した。先生から「念のためご連絡先を下さい」と言われて、迷ったが名刺を渡した。なぜかおじさんも「じゃあ俺にもくれ」つってきたので、渡した。その後少年はサッカークラブへ向かい、おじさんは自転車でどっかに行き、先生は学校へ戻った。私も自転車に乗って患者さんちを目指した。少し遅れたが、特に問題はなかった。

 

 

 

その何日か後に、仕事の携帯に電話がかかってきて、出てみたらこの間の少年のお母さんだった。

「先日は本当に本当にお世話になりました。本当は菓子折りでも持ってお礼を言いに行きたいのですが、ご迷惑と思ってひとまず電話させてもらいました‥」と電話の向こうでぺこぺこ頭を下げているのが想像できるくらい、低姿勢で話し始めた。

「とんでもないです。というかちょっと変なおじさんに言いがかりをつけられていた感じだったので、見ていられなくなって。彼には気にしないように言ってあげてください」

なんか私は嬉しくなって、格好つけたことを言っていた。自分の非をきちんと認める子だから、今後は気をつけて自転車に乗るだろう。

お母さんは何度も何度もお礼を言ってくれた。

 

「お姉さんが冷静に話を聞いてくれたから本当に良かったって、息子が言っていたので‥」

お母さんにそう言われて、本当に嬉しかった。

 

なんというか、"明確に誰かの味方になることなくその場を動かしていく"というスキルが身についていたからこそ、こういう穏便な結果になったのかもしれないと思う。

少年には、世の中にはああいう嫌な大人ばかりであると絶望してほしくなかった。それが彼に伝わっていたらいいな、と思う。自転車を飛ばしていたことは確かに危ないことだし、実際に大事故になる可能性だってあることを実感しただろう。"変なおじさんに絡まれた"ということにダメージを受けるより、"これからは注意して自転車乗ろう"というとこだけを学べばいい。

 

人を助けると本当に気持ちが良くなるんだなあと実感した。心に隙間が開いて、そこに風がスーッと入っていってスッキリする感じ。

 

自分のことで精一杯になりがちだけど、困っている人を見たらなるべく助けるようにしたい。

 

ちなみに名刺を渡したのは、「精神科ソーシャルワーカー」というマイナーな仕事を広めたかったからです。

 

おわり

 

産んだ日

 

 

この家で風呂に入るには、彼に申告する必要がある。

そう決まったわけではないし、水道代は折半なので申告する必要は全くないが、無駄な諍いを避けるために私が編み出した工夫である。更に言えば、彼は仕事終わりに職場でシャワーを浴びて帰ってくるので、この家ではほとんど風呂場を使うことはない。誘えば入るが、湯船はあまり好きではないらしい。そんなわけで、自分はあまりこの家で風呂に入らない上に同じ水道代を払っている(=自分は職場で入浴するので多めに払っている)ので、私が湯船に浸かるのを良く思わないらしい。

私もきちんと水道代を納めていますので!と堂々と入ればいいのに、結局彼に許可をもらっている。ダメと言われたことはないが、週に二回くらいしか湯船に浸かれていない。本当は毎日入りたい。

 

自分でも無意識的に、自分を相手の支配下に置くことが多い。気づいたときにはもう遅くて、相手にとっての私は“ばかなやつ“なのだ。

 

支配下で生きていくことについて考えていた。

風呂を沸かす許可を得ること、裏表で洗濯機に放り込まれた服を正すこと、いつまでも放置されている空き瓶を分別して捨てること。状況の中にいる自分から目を逸らして、相手を咎めず生きていくこと。支配下で生きるということは、あんがい楽なのかもしれない。

私は自分のことを考え始めると、どんどん深みにはまっていって、戻れなくなることが多い。自分に着目しすぎるととたんに世間との乖離が始まるような気がしている。だから、あんまり自分のことは考えないほうがいいのかもしれない。自分のことばかりに執着して病気になってしまうくらいなら、少しくらい鈍感にやっていくほうが、長い目で見ればマシなのかもしれない。

 

 

風呂場の電気が眩しく感じたので、脱衣所だけ電気をつけて、真っ暗ななか湯船に浸かっていた。隣の家の親子が楽しそうに入浴している声が反響して聴こえてくる。どうしてお風呂に入っているだけで、あんなに楽しそうなんだろう。

週に二回ほどの入浴は、別に特別感があるわけではない。大好きなお風呂に入れたのに、なんだか変な罰ゲームみたいに感じて、じっとりと悲しくなってくる。

 

いつもは長風呂なんてしないのに気がつけば1時間くらい経っていて、心配した彼が風呂場を覗きにきた。それは少し嬉しかった。

 

 

 

産まれたての私を抱いたとき、「こんな汚い世界に産み落としてしまって申し訳ない」と母は思ったらしい。小学生の頃に一度だけ話してくれた話である。どんな話の流れで母がそう言ったのかは覚えていないけれど、母のその一言自体はいつまでも覚えている。

 

 

 

風の日

 

高校二年生のとき、悩んだ末に私は剣道部を辞めた。剣道は5歳の頃から習っていて、それからずっと剣道以外の習い事はしたことがなかった。他のことをやりたいとも思わなかった。剣道は謂わば、私を形成している要素の一つだった。竹刀を振っている自分も、汗臭さも、掌いっぱいにできた肉刺も、テーピングだらけの素足も、格好いいと思っていた。そんなふうに並々ならぬ思いを込めて続けていたわけだが、色々あり部活をやめた私は、“何にも所属していないこと”に恐怖感を感じ、ふと思い立って生徒会に入ることにした。

 

生徒会室は3階の奥の日陰にあった。教室一つぶんの広さがあり、古びたソファーやコの字に置かれた長机とパイプ椅子、文化祭やスポーツ大会のグッズ、放置された誰かの体操着などでいつも散らかっていた。ずっとカビ臭かった気がする。

 

「またこの曲かよ」

確か初夏だったと思う。軽やかな風が生徒会室に入ってきていた。何かの催し物でばたばたとしていたある日の放課後、同級生が呟いた。上の階はちょうど軽音部のスタジオになっていて、いつも決まった曲が流れてきていた。

ELLEGARDENだったっけ」

他の同級生が話しかけると、「そう、風の日」と作業をしながら彼は答えた。

コピーしやすいのか、部の伝統なのかわからないが、生徒会室で作業をしていてこの曲を聴かない日はなかった。毎日聴いていたけれど、バンドの名前や曲名も何も知らなかった。その日に情報を手に入れた私はさっそく帰り道にTSUTAYAに寄り、「風の日」が入っているアルバムを借りて聴いてみた。

学校のスタジオでは聴き取れなかった歌詞を初めて見た。

 

 

“雨の日には濡れて 晴れた日には乾いて

寒い日には震えてるのは

あたりまえだろう

次の日には忘れて

風の日には飛ぼうとしてみる

そんなもんさ 僕らはそんなもんさ”

 

 

歌詞にはひねくれた教訓もあまり感じないし、かといって何も込められていないというふうにも感じない。不思議な曲だと思った。天気によって人の気持ちは変わっていくものだから、いま目の前にある辛い現実はずっと続くわけじゃないよ、というような比喩だろうか。今日は雨、明日は晴れ、明後日は、、と人生は続いていくんだぞ、というふうにも感じる。

僕らはそんなもんさ、という歌詞には"諦め"というより、なんだか"温かみ"を感じる。温かい手で背中をさすられているようなぬくもりだ。

 

高校を卒業しても、「風の日」を聴き続けた。「風の日」を聴くと、生徒会室のカビ臭さや雑然とした部屋、先輩や同級生たちと過ごしたあまりパッとしない日常を思い出す。剣道部をやめても自分に居場所があることが嬉しかった。

 

 

私はよく音楽を聴いて過去を思い出す。正確に言えば、“当時の匂い”を思い出す。それは川沿いに群生していた背の高い雑草の匂いだったり、冬の始発電車を待つ駅のホームの匂いだったり、生徒会室のカビ臭さだったりする。

どの匂いも、私の胸を苦しくさせる。もう二度と戻れない日々をただ思うだけで、戻りたいと思うわけではなかったけれど。

 

この先の長い人生で、“過去を懐かしむこと”に何度遭遇するのだろう。いまこの瞬間を懐かしんで、胸がぎゅっと苦しくなることがいつか来るのだろうか。そういうことに自分がしっかり耐えられるのか自信がない。

できることなら、懐かしいなあと昔を思い出すことはあまりしたくない。楽しい記憶もつらい記憶も、思い出したところでただの思い出で、それをどうこうできるわけじゃない。過去に執着しているわけでもないのに、必ず胸が苦しくなる。