ランゲルハンス島沖

どうしてそんなこと言うの

産んだ日

 

 

この家で風呂に入るには、彼に申告する必要がある。

そう決まったわけではないし、水道代は折半なので申告する必要は全くないが、無駄な諍いを避けるために私が編み出した工夫である。更に言えば、彼は仕事終わりに職場でシャワーを浴びて帰ってくるので、この家ではほとんど風呂場を使うことはない。誘えば入るが、湯船はあまり好きではないらしい。そんなわけで、自分はあまりこの家で風呂に入らない上に同じ水道代を払っている(=自分は職場で入浴するので多めに払っている)ので、私が湯船に浸かるのを良く思わないらしい。

私もきちんと水道代を納めていますので!と堂々と入ればいいのに、結局彼に許可をもらっている。ダメと言われたことはないが、週に二回くらいしか湯船に浸かれていない。本当は毎日入りたい。

 

自分でも無意識的に、自分を相手の支配下に置くことが多い。気づいたときにはもう遅くて、相手にとっての私は“ばかなやつ“なのだ。

 

支配下で生きていくことについて考えていた。

風呂を沸かす許可を得ること、裏表で洗濯機に放り込まれた服を正すこと、いつまでも放置されている空き瓶を分別して捨てること。状況の中にいる自分から目を逸らして、相手を咎めず生きていくこと。支配下で生きるということは、あんがい楽なのかもしれない。

私は自分のことを考え始めると、どんどん深みにはまっていって、戻れなくなることが多い。自分に着目しすぎるととたんに世間との乖離が始まるような気がしている。だから、あんまり自分のことは考えないほうがいいのかもしれない。自分のことばかりに執着して病気になってしまうくらいなら、少しくらい鈍感にやっていくほうが、長い目で見ればマシなのかもしれない。

 

 

風呂場の電気が眩しく感じたので、脱衣所だけ電気をつけて、真っ暗ななか湯船に浸かっていた。隣の家の親子が楽しそうに入浴している声が反響して聴こえてくる。どうしてお風呂に入っているだけで、あんなに楽しそうなんだろう。

週に二回ほどの入浴は、別に特別感があるわけではない。大好きなお風呂に入れたのに、なんだか変な罰ゲームみたいに感じて、じっとりと悲しくなってくる。

 

いつもは長風呂なんてしないのに気がつけば1時間くらい経っていて、心配した彼が風呂場を覗きにきた。それは少し嬉しかった。

 

 

 

産まれたての私を抱いたとき、「こんな汚い世界に産み落としてしまって申し訳ない」と母は思ったらしい。小学生の頃に一度だけ話してくれた話である。どんな話の流れで母がそう言ったのかは覚えていないけれど、母のその一言自体はいつまでも覚えている。