ランゲルハンス島沖

どうしてそんなこと言うの

治療

 

先月末から、約3年ぶり二度目の精神科クリニックへの通院がはじまった。

3年前は実家に住んでいて、いまとは比べものにならないほどストレスフルな仕事をしていた。高級そうなテーブルの向こうの高級そうな椅子に座っていた医師は、目の前のパソコンを隔てて私と話をした。弁護士とのやりとりのようだった。そんな経験はないけど。

あっさりと『注意欠陥多動性障害』の診断が下り、コンサータストラテラが処方された。

「これさえ飲んでいればみんなのように仕事ができるようになるんだ」と希望が見えてきたように感じた。実際に特にコンサータの効果は抜群だった。しかしながら、動悸や便秘、口渇の副作用と、高額な治療薬、何より「これを私は死ぬまで飲み続けなきゃいけないんだ」という先の見えない不安にやはり耐えられなかった。転職したら、服薬しなくてもそれなりに働けるようになった。

それからしばらく精神科には行かなくなった。

 

二度目の通院が始まったきっかけは、私が自殺未遂をしたからだ。

一度目の自殺未遂は去年の今頃で、まだ残っていたストラテラ数錠と酒を大量に飲んだ。彼氏に見つかって警察と救急車、両親を呼ばれそうになった。もうしないのでそれだけはやめてくれとゲロ吐きながら懇願した。彼氏は警察も救急車も両親も呼ばないでくれた。

二度目は今年の5月末、電気コードを首に巻いてベランダの柵と繋いだ。ベランダに体を乗り出したところを彼氏に見つかり、また“しかるべき機関の人たち“を呼ばれそうになったが、またしても「怒られたくないのでやめてくれ」と泣きながら懇願した。彼氏は警察等は呼ばなかったが、私の母の連絡先を自分の携帯にメモした。

「もうあなたは普通ではないから、病院に行ってきたほうがいいよ」と言われた。素直にそのとおりだと納得して、すぐに精神科クリニックを調べて予約を入れた。

 

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私は中学一年生の頃から大学二年生くらいまで、リストカットを続けていた。もともと絵を描いたりアニメを見たり小説を読むのが好きで、そういうところから自傷行為の知識を得たのだと思う。

リストカットに至った原因はいろいろあったと思う。母親が厳しかった。勉強ができる弟と私はいつも比べられた。いつだって弟の方が可愛がられていて、うらやましかった。母親に褒めてもらおうと剣道を頑張って、中学3年で部長になった。学級委員をしたこともあったし、リレーの選手にも選ばれたし、剣道二段にも合格した。頼り甲斐のある生徒だと先生から言われた。卒業式でピアノで伴奏をした。勉強はできなかったからほかのことで認めてもらおうと思っていた。

でも、私がいくら頑張っても母は私を褒めてくれなかった。私がいくら頑張っても、母の望む娘に私はなれなかった。じゃあもうどうなったっていいや!と吹っ切れることもできなかった。

 

自分が我慢すれば丸く収まる、という経験をし過ぎた。今思えば部活で部長になることも、学級委員になることもほんとうは嫌だったのかもしれない。自分の”ナマの感情“から目を背けていたツケはきちんと回ってきて、学校から帰ると自分の部屋で腕を切りまくった。自傷行為をする人の、「血を見るとすっきりする。冷静になれる」という気もちがよくわかる。誤学習なんだけど。

 

夜、一人の部屋でふとんにくるまって、自分の力だけではどうしようもできないどでかい不安や絶望の壁に圧倒された。実際には実家の自分の部屋にいて、一階でテレビを見ている家族の笑い声が聞こえてくるのに、自分がひどく孤独で全世界の人間がいずれ自分を陥れようとしていると感じた。

なんかもうずっと「生まれてきて申し訳ない」みたいな気分だった。

誰にも相談することもなく、親に反抗して気持ちをぶつけることもなかった。誰のことも信用していなかったから。そんでもって、”異常行動をしている自分“にも気がつかなかったし、興味がなかった。

私は今よりもうずっと前に、医療機関にかかるべきだった。

 

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年齢を重ねればきっと大人になれると思っていた。苦手なしいたけやゴーヤも食べられるようになるし、ビールをたくさん飲むものだと思ってたし、もちろん精神的にも落ち着くものだと思い込んでいた。

社会人三年目くらいまでは仕事のことで頭がいっぱいで、仕事のことしかストレスがなかった。それはそれで大変だったけど、そのときは忙しすぎて自分の“精神的な未熟さ”を考える時間がなかった。

三年目を過ぎて転職し、自分のキャパを越えない適度な仕事に就くことができた途端、私は自分について考える時間が増えた。

 

どんどん不安定になっていった。

周りがどんどん結婚出産していった。それはまるでこの世の当たり前みたいなふうに見えて、ものすごく焦った。

 

私はずっと”自傷行為“という、普通の人がやらないことを長年続けてきた”異常“な人間だ。だからこそ、”普通“に近づかなければいけないと思った。

26歳になっても彼氏と喧嘩することを恐れて自分が我慢することで全てを済ませようとしたけど、結局どこかでそれは爆発して、いろいろなものを壊してしまう。泣き喚いて洗濯機を蹴飛ばしてしまう。裸足で外へ飛び出してしまう。夜中に電車に乗ってどっかに行ってしまう。包丁を握ってキッチンで突っ立ってしまう。

 

自分に問題がある時期にきちんと自分と向き合わないと、そのときから“自分の中身の時間”が止まってしまう。何も問題が解決しないまま時間だけが過ぎて、それでもそれは“無かったこと”にはならなくて、また自分の目の前に立ちはだかる。外側の自分と内側の自分のギャップに絶望して、焦る。

 

 

 

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待合室のソファはふかふかで、ずっしりと体が埋まる。予約時間から20分ほど過ぎて名前を呼ばれた。

先生はパソコンを打ちながらも、私の話を親身に聞いてくれた。“私が話したかったこと”を先生から質問してくれて、なんとも不思議だった。ウンウンと相槌を打っていたが、「それは大変だったね。辛かったね」と過剰に共感しすぎるわけでもなかった。私にとってはそれがほどよい距離感で心地よかった。初対面の精神科医が言う「辛かったね」など、信用できなさすぎてちっとも受け止められない。

ひとまずは漢方薬の服用と頓服薬を続け、カウンセリングをすることに決まった。

 

 

 

2022/06/20