ランゲルハンス島沖

どうしてそんなこと言うの

徐放錠

 

鎌倉に、心理療法を専門とする臨床オフィスがあるらしい。この間、物珍しさで湘南モノレールに乗ったときに車窓からその看板が目に入ったのだ。山の中腹に位置し、向こう側には青い空と江ノ島の海が見えていた。とても素敵な場所だと感じた。昔よく遊んでいた公園に行ったときの懐かしさのような、絵画に描かれているどこかの島を想像する憧れと寂しさのような、複雑な気持ちになった。実際、そこがどんなところだかはよくわからないのだが。

そこでは箱庭療法をやっているらしい。私は心理療法の、特に箱庭療法に興味があった。箱庭療法、絵画や陶芸を始めとした芸術療法を学びたいがために、大学の志望学科を心理学科にするか最後まで悩んでいた。選ばなくてよかったと思う。

箱庭という限られたフィールドの中で、その人は何を作ろうとするのか?なぜその木を、家を、色を、形を、場所を、選んだのか?そこには生々しい人間の深層心理があるはずだ。もちろん私自身にも。私はそれが知りたい。例えそれが恥ずかしいことであっても、高いお金を払ってでも私はそれを見てみたい。私は私のことが知りたい。私は、誰かから客観的に見た私を知りたい。私は私のことを"私として"でしか見つめることができない。

 

私はよく人に嘘をつく。確認していないのに「見ました」と言う。「すみません、まだ確認できていません」と素直に謝って怒られればいいものを、嘘をついて回避しようとするのだ。分からないことや自信のないことを「大丈夫です」と言う。「自信がないのでもう一度教えてください」と伝えてまた教えて貰えばいいのに。咄嗟に嘘をついてしまう。そしてもちろん後々困ることになるのは自分なのだ。

どうやら私は"誰かから怒られること"に関して、異常なほど敏感で、その機会を避けようと必死になっているらしい。"指導"も"注意"も"確認の声かけ"も、私にとっては"怒られていること"だった。そこで、どうにか怒られを回避するため、そして相手に失望されないように嘘をつく。

私は人から失望されたくない。仕事を覚えるのが遅いくせに、人並みにできているふりをする。そして大抵そういうことは周囲の人たちにはバレているのだ。そしてまた、私は周囲を失望されないために仕事をしているわけではないのだ。

 

 

 

 

学生の頃のように、自分のことを深く掘り下げてネガティブに考えて、落ち込むことは少なくなった。ただ、わけのわからない涙が出てきて、夜中に困ってしまうことがよくある。考えないふりをしているだけで、頭のどこかに、考えろ考えろと喚き叫んでいる何かがいるのかもしれない。もう見ないようにしよう、こんなものを見ても碌なことにはならないと決めて、どこかに沈めていたものが砂の中からもそもそと這い出てきた。

 

文章が書けなくなること、絵が描けなくなること。それは、私の中に私を指示する存在が生まれてしまったからだ。そして、それもある意味は私なんだと思う。色々な人に色々なことを言われ、消化できず、傷つき、自分でそれを癒すことができず、その呪いみたいなものが私自身として膨れ上がってきているのかもしれない。結局のところ、私を苦しめているのは私なのだ。私は私である限り、この苦しみからは解放されない。気持ちよく悲観して言うなら