ランゲルハンス島沖

どうしてそんなこと言うの

弟について

私には二歳離れた弟がいる。

彼は大学で生物関連の学部に入り、魚を研究していた。今年三月に大学を卒業し、四月に"魚屋さん"に入社した。デパ地下に入っているような、すこしリッチな魚屋さんだ。

 

今日は私と母とで、弟の働くデパートまで出かけたのだった。魚屋さんを見つけ、厨房をチラチラ覗いていると、弟はそこで忙しなく動き回っていた。しばらく売り場をウロウロしていると、弟が厨房から出てきた。私たちを横目で認識した弟は、ニヤニヤしているのがマスク越しでも分かった。

「ヘイ、らっしゃい!今日は海老がいいよ。おまけしちゃうよ」と威勢のいい声で呼びかける。私はびっくりしてしまった。デパ地下でよく見る、"魚屋さん"のあの声だ。ああいう声はどうやって出すのだろう。やっぱり研修とかで教わるんだろうか?弟が遠回しに海老を売りつけてくるので、私と母は海老を買わざるを得なかった。

「今日は鯛もね、"カマ"がありますよ。鯛めしとかにいいですよ」と、彼がやんわりと鯛も推してくるので、もちろん買った。弟は恥ずかしがる様子も見せず、私たち家族を"普通の客"として扱い(当然だが)、手際良く商品を袋に詰めて機械を操作し、バーコードを貼り付けた。

 

客を呼ぶ声も、魚を扱う手つきも、魚を袋に詰めてバーコードをつける動作も、"デパ地下の魚屋さん"だった。

 

 

 

弟は小さいときから病弱だった。

生まれつき肌が弱く、年中肌を掻いて泣いていた。寝ている間も肌を掻いてしまうので、母が手袋を作ってそれを付けて寝ていた。病院へ通ったり、色々な薬を塗ったり、食べ物に気を使ったりと、母は弟の手当てに付きっきりだった。母に看病されている弟が、羨ましくて憎かった。母を取り合ってよく喧嘩をして、お互いの文房具や勉強机にマジックでこっそりと「しね」と書き合った。同じことをやっていても、私だけが怒られた。、私は小さい頃から自分より弟のほうが母に愛されていると思い込んでいた。

いつの間にか、弟とのいがみ合いは無くなっていて、弟を可愛いと思えるようになっていた。おそらく小学三年生あたりで、"自分が三年生で弟は一年生"と社会的な地位が明確になったせいもあるように思う。自分で教材を作り、弟に勉強を教えた。学校の廊下で会うと、弟は必ず「お姉ちゃん」と手を振ってくる。"自分は先輩なのだ"という優越感があった。

 

弟は穏やかで優しい子どもだった。

男女共に友達が多く、先生からも可愛がられていた。小学二年生頃の一時期、少し変わったクラスメイトの男の子にしつこくされることがあり、悩んでいたことがあった。帰り道、そのクラスメイトにしつこくされている弟を見た。彼は道路を挟んだところから、大声で弟を小馬鹿にしたようなことを言っていた。学校からここまで、この調子で彼が付いてきたのだろう。弟は口が下手でうまく言い返せず、めそめそと泣いていた。

肌が痒くては泣き、クラスメイトにしつこくされては泣き、私と喧嘩して泣いていた。

 

 

中学に上がるとバスケ部に入った。元々ミニバスをやっていて、中学ではバスケ部に入ると母と一緒に決めていた。ちなみに、私と一緒に剣道を習っていたのだが、防具の不衛生さや肌荒れから剣道は辞めてしまった。バスケももちろん、剣道もそれなりに上手だった。

校内で弟の友達に会うと、「安藤の姉ちゃんだ」と必ず指をさされた。必ずと言っていいほど彼らはニヤニヤしていて、言葉の端々に"冷やかし"が含まれていて、それがとても可愛かった。そうよ、あたしがあの子の姉ちゃんよ、と誇らしく感じていた。

 

高校はバスケ部の強い男子校に入学した。

そうだ。一緒に高校の合格発表を見に行ったのだ。ドラマとかでよくあるような、大きな模造紙に番号がずらりと並んでいた。血眼になって受験番号を探す学生や両親の雰囲気に圧倒されて、私はひどく緊張した。弟は私と一緒になって立ち尽くしていたが、「自分で見てきなよ」と私が声をかけると一人で結果を見に行った。

しばらくすると人の群れから弟が出てきて、「あった!番号あったよ!間違えてないか見てきてよ!」と両手をバタバタさせて叫んだ。中学生になった弟は反抗期真っ只中で、母とはよく喧嘩をしていたし、家ではいつもムスッとしていた。そんなお年頃な弟がこれほど感情を表出して喜んでいることにびっくりした。自分のことのように嬉しくて、新宿に寄って二人でプリクラを撮って家に帰った。

 

大学生から社会人まではお互い忙しく、家で会っても会話することが減っていた。それでも私は弟を可愛がっていたし、お年玉は彼が大学を卒業するまであげていた。初めて彼女ができて、彼女に夢中な弟を、私と母はああだこうだ言いながら見守っていた。

 

 

弟が大人になっていくことは当たり前で喜ばしいことなのに、デパ地下で魚を売る彼を見てからひどく切ない気持ちになる。この間、彼が車を出してスーパーまで連れて行ってくれたときに似た感情だった。泣いてばかりいた小さな弟が、いまはこの助手席に好きな女の子を乗せて色々なところに出かけているのだ‥。誰かを幸せにしたいという気持ちを持っている。誰の支えがなくても、自分の好きな人を喜ばせたいと思える男性になっていたのだ。

弟はとっくに自立していて、もう私があの頃のように何かを教えなければいけない時は終わったのだ。

 

 

 

洗剤で荒れ、ボロボロな彼の手を見ると胸が痛む。私はこっそり、必死に涙を堪えている。

 

 

弟は魚を少し値引きして売ってくれていた。

 

速度

 

バンプオブチキンを聴いている。

最近は、「メーデー」のイントロを聴いただけで、涙が出てくるようになってきた。目を閉じると、どこまでも暗く、星々が瞬く銀河が広がる。速度が上がる。目を開けるとわたしは中学校の体育館の前に立っていて、校舎を眺めている。黄ばんだ風景。ださい制服。ぐったりした上履き。ぼうっとしていると、わたしの前を色んな人たちが、時代が、走り抜けていく。友達、好きだった人、先生、部活の先輩や後輩たち。はっと見ると、わたしは制服から剣道着へ着替えている。校庭ではハンドボール部が活動していて、砂埃と松脂の匂いが体育館まで入ってくる。外の水飲み場で涼む後輩。汗で湿っている額。喉の渇き。両手の肉刺。ふと呼ばれると、わたしは家路についている。上履きからスニーカーへ履きかわっている。汗と制汗剤の匂いが体から滲み出る。背負ったエナメルが重くて、右肩がつらい。誰に呼ばれたのかわからない。いつもの交差点。カーブミラーを見ると、誰かが歩いてくる。わたしと同じ音楽を好きだった人。言えなかった言葉。

 

 

バンプオブチキンを聴いたとき、嫌でも、こういうことを回想してしまって、懐かしくて切ない悲しい気持ちになるので、覚悟して聴くようにしている。

子供の頃に聴いていた音楽を大人になって聴くと、ああなんでこんな人間になってしまったんだろう、とか、ここにいて自分は正しいのだろうか?とか、自分の全てが間違っているような気になってくる。子どもの頃は、自分は何にでもなれると確信していたからかもしれない。

自分のことをどう考えようが、日々は続いていくので、とても残酷だ。感傷に浸っている時間はない。そういうことも含めて悲しい。

 

右手

 

今起きている一つの事象から二つ三つの事象を生み出し、その自分が作り出した頭の中の状況で溺死しそうになることが多い。自分一人で考えたことは私の場合、大抵へんな方向に突っ走ってしまう。一人で考えれば考えるほど自分が苦しくなる。世の中に自分の味方がいないように感じる。自分が信じていたものに騙されているように感じる。元々はいなくなる予定で過ごしていたんだ、早く死ななくては、自分はそういう宿命にあるんだった。とか中学生みたいなことを思う。精神的に不安定な状況の24歳はこういうこと以外に何を考えるんだろう。いや、そもそも私と同じ世の中の24歳のひとたちは精神的に不安定になどならないのかもしれない。

 

全部が信じられなくなったとき、漠然と「早く死ななくては」と考えていたことを思い出したとき、頭によぎるのはいつもリストカットである。24歳がリストカットを考えている‥と俯瞰して見ると悲しくて泣けてくる。私にはそれしか、パニック状態の脳を落ち着かせる方法を知らない。恥ずかしくなって、自殺の方法を調べ、ありとあらゆる方法で死ぬ自分を想像する。二階から落ちたってきっと大したことないのに、窓から何時間も下を眺めたりする。

結局のところ、自殺を実行するまでの強い衝動も思考停止状態も起きることがないので、右手を壁や階段の角にバンバン叩きつけている。近所迷惑である。これでは仕事で面倒を見ている障害児の自傷行動と同じだ。右手は内出血を起こして、動かすたびに痺れている。この方法で自分か楽になったのかどうかよくわからなかった。というか結局なにをしても楽にならない気がする。

 

自分の置かれている環境が変われば、関わる人を変えれば、自分は良い状態で過ごせると思っていたがそれは大きな勘違いだった。どこにいようがなにをしようが私は私なのだった。中学生だろうが24歳だろうが、私は連続していて、右手を壁に叩きつけていた。私から逃れられない、私が自殺する理由はこれだと思う。

『スプートニクの恋人』

村上春樹で一番好きな作品は『スプートニクの恋人』だった。村上春樹は暇な大学時代によく読んでいて、作品だけでなく小さなエッセイやインタビューなども読み漁るほどはまっていた。休み時間には国家試験の勉強をするためによく大学の図書館を使っていたけれど、結局本ばかり読んでいた。

なぜ、数ある村上春樹作品の中で『スプートニクの恋人』が好きかというと、寂寥感が素直に伝わってくるからだ。この作中で村上春樹が表現する何とも言えない寂しさと孤独感が私にはわかる気がするからだ。

 

"風の強い夜に、高い石壁にわけもなく予定もなく信条もなくただへばりついている無意味な虫のような気持ちだった。すみれは僕から離れて「さびしい」と言う。でも彼女のとなりにはミュウがいる。ぼくには誰もいない。ぼくには―ぼくしかいない。いつもと同じように。"

"人にはそれぞれ、あるとくべつな年代にしか手にすることのできないとくべつなものごとがある。それはささやかな炎のようなものだ。注意深く幸運な人はそれを大事に保ち、大きく育て、松明としてかざして生きていくことができる。"

 

私は特に"切なさ"や"懐かしさ"を感じるものが好きだ。そういう状況ではないのに、わけもなく悲しい音楽を聴いたり、救いのないどうしようもない小説を読んだりする。しかし、『スプートニクの恋人』はそれとは違う感覚を私に与えてくれる。"健全な未来のある切なさ"というような感じ。『スプートニクの恋人』の舞台はギリシャだが、私は作中のどの文章を読んでも、ギリシャに行くことができる。実際には行ったことのないギリシャの青い海や白い教会や匂いのある風を感じることができる。寂しくて優しい作品だ。

 

 

4/5

誰かの気配を感じながら生活することが時々しんどい。彼が寝返りを打ったり、階段を降りてトイレに入ったり、シャワーを浴びたり、ゲームしていたり、咳やくしゃみをしたり、ため息をついたりする、その生活音が時々息苦しい。

わたしは誰かといるとき、一人でいるときのわたしでなく、二人でいるときのわたしでいなければという強迫観念がある。誰かといるときでも一人でいるときのように気楽にいられたらいいのだろうけど、"誰かといるときの自分"でいようとするのは普段の自分からだいぶ乖離していると思う。同棲を始めたときはそのことが顕著に現れて、寝付きが悪くなったり、イライラして喧嘩になったりした。相手が求めるわたしにならなければとわたしは一人で執着していた。これから先、こういう暮らしが続くのだから、誰かといるときの自分であろうとするのは程々にしようと思った。

たとえば彼は煙草が嫌いなのだけど、わたしは時々吸いたくなる。仕事が終わったときとか、一人で外を散歩しているときとか。工夫すればばれないだろう‥とは考えるものの、結局吸わない。彼に嫌われたくないからだ。わたしは自分がやりたいことをすることで相手に嫌われることなど構わないといった体勢で過ごしてきた。こういうときも悲しくなる。わたしはわたしがやりたいことをできない状況にあるような気がしてしまう。別に煙草など吸わなくても何とかやっていけるし、それほど大きな問題ではないのだろうけど。

一昨年は約一年ほど一人暮らしをしていて、好き勝手に自由に過ごしていた。気が向いたら友達に会い、実家にいたときとは違い母と良い関係を保つことができた。何よりわたしだけの、誰の気配もない空間はとても安心だった。

もう一人にはなれない。誰かの目がある中である程度監視され評価されながら過ごしていかなければならない。

一人暮らしをしていて、自分の思うように部屋を作ったり、自分だけが食べたいものを作ったり、時々夜遊びしてひどい男に引っかかって傷ついたり、一人で生きている友達がときどき羨ましく思う。だからと言っていまの生活を壊したいわけでもなく、中途半端な気持ちだ。

 

11/29

 

いつの間にか、人と話せなくなっていた。こうしてやっと書いている文章も、きっとめちゃめちゃだ。

自分の気持ちや意見を相手に伝えられない。それは抑圧してくる相手の存在があまりにも大きすぎるから。私の話し方を見ている人たちが、私の話し方について説教を始める。お前の喋り方はときどき冷たい、言い方がきつい、表情が強張っている、相手を怖がらせている。当然ながら私には自覚がないので、それは説教としか受け止められない。説教としか受け止められない私は未熟だと思う。喋り方に気をつけていても、いつもニコニコしているように心がけていても、それでもどうやらダメらしい。努力が足りないらしい。

そういうことが続いて、だんだん人と話すのが億劫になってきた。さらに、その抑圧してくる人たちの声が聞こえてくるような気がして、うまく声が出せなくなってきている。お前はダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだダメだ。私の顔に何重にも貼り付いた笑顔は、まったく笑っていないらしい。私は抑圧に慣れている、よくわからない権力を振りかざす人から暴力を受けることにもまた慣れている。慣れているはずだった。権力のある人から言われることは、たとえ的外れであっても受け入れなければならない事実だと思っていた。暴力は受け入れないといけない。冷静に考えたらよくわからない、呪いのような理論を私は23歳になっても頑なに手放そうとしなかった。

人と面と向かって話しているとき、電話で話しているとき、漫画の吹き出しみたいに、声が文字になって目に入ってくる。見られている、聞かれている。そして批判される。

 

悲しかった。

私は人と話すことが好きだったし、そういうことができる仕事に就けたことが嬉しかった。自分に向いていると、純粋にそう信じ込んでいた。今はどうかわからない。本当は自分に向いていなかったのかもしれないし、ただ単に環境が悪いのかもしれない。

文章を書くことも好きだった。好きだった、なんて言いたくなかった。利き腕を失ったようなものだ。私の文章はもう、下手な記録でしかない。もう、自分で読み返そうと思わない。

 

いくらむちゃくちゃになっても、時間は進んでいくし、また月曜日から仕事が始まる。落ち込んでいるよりかは、好きなことでもしていたほうが効率のいい休日を過ごせるのだ。そう考えても前向きになれない。虚しさに負けてしまう

 

徐放錠

 

鎌倉に、心理療法を専門とする臨床オフィスがあるらしい。この間、物珍しさで湘南モノレールに乗ったときに車窓からその看板が目に入ったのだ。山の中腹に位置し、向こう側には青い空と江ノ島の海が見えていた。とても素敵な場所だと感じた。昔よく遊んでいた公園に行ったときの懐かしさのような、絵画に描かれているどこかの島を想像する憧れと寂しさのような、複雑な気持ちになった。実際、そこがどんなところだかはよくわからないのだが。

そこでは箱庭療法をやっているらしい。私は心理療法の、特に箱庭療法に興味があった。箱庭療法、絵画や陶芸を始めとした芸術療法を学びたいがために、大学の志望学科を心理学科にするか最後まで悩んでいた。選ばなくてよかったと思う。

箱庭という限られたフィールドの中で、その人は何を作ろうとするのか?なぜその木を、家を、色を、形を、場所を、選んだのか?そこには生々しい人間の深層心理があるはずだ。もちろん私自身にも。私はそれが知りたい。例えそれが恥ずかしいことであっても、高いお金を払ってでも私はそれを見てみたい。私は私のことが知りたい。私は、誰かから客観的に見た私を知りたい。私は私のことを"私として"でしか見つめることができない。

 

私はよく人に嘘をつく。確認していないのに「見ました」と言う。「すみません、まだ確認できていません」と素直に謝って怒られればいいものを、嘘をついて回避しようとするのだ。分からないことや自信のないことを「大丈夫です」と言う。「自信がないのでもう一度教えてください」と伝えてまた教えて貰えばいいのに。咄嗟に嘘をついてしまう。そしてもちろん後々困ることになるのは自分なのだ。

どうやら私は"誰かから怒られること"に関して、異常なほど敏感で、その機会を避けようと必死になっているらしい。"指導"も"注意"も"確認の声かけ"も、私にとっては"怒られていること"だった。そこで、どうにか怒られを回避するため、そして相手に失望されないように嘘をつく。

私は人から失望されたくない。仕事を覚えるのが遅いくせに、人並みにできているふりをする。そして大抵そういうことは周囲の人たちにはバレているのだ。そしてまた、私は周囲を失望されないために仕事をしているわけではないのだ。

 

 

 

 

学生の頃のように、自分のことを深く掘り下げてネガティブに考えて、落ち込むことは少なくなった。ただ、わけのわからない涙が出てきて、夜中に困ってしまうことがよくある。考えないふりをしているだけで、頭のどこかに、考えろ考えろと喚き叫んでいる何かがいるのかもしれない。もう見ないようにしよう、こんなものを見ても碌なことにはならないと決めて、どこかに沈めていたものが砂の中からもそもそと這い出てきた。

 

文章が書けなくなること、絵が描けなくなること。それは、私の中に私を指示する存在が生まれてしまったからだ。そして、それもある意味は私なんだと思う。色々な人に色々なことを言われ、消化できず、傷つき、自分でそれを癒すことができず、その呪いみたいなものが私自身として膨れ上がってきているのかもしれない。結局のところ、私を苦しめているのは私なのだ。私は私である限り、この苦しみからは解放されない。気持ちよく悲観して言うなら